【はじめに】
抗がん剤はがん患者にとって有益な治療薬であるが、それを取り扱う医療従事者が抗がん剤に曝露することでその健康に悪影響を及ぼす“職業性曝露”が大きな問題となっている。抗がん剤は発がん性や催奇形性、臓器毒性を有しており、調剤や運搬、投与に関連し飛散した薬剤が周辺環境を汚染することで患者のみならず抗がん剤を取り扱う医療従事者や同一の空間に出入りする無関係の医療従事者に対しても曝露が起こることがわかっている。そのため人医療では抗がん剤取り扱い指針が制定され、医療従事者の曝露リスク軽減が図られているが、獣医療においては大小様々な動物診療施設で抗がん剤が取り扱われているにもかかわらず抗がん剤の曝露リスクに関する検討は行われていない。そこで今回、大学診療施設および開業動物病院の2施設で抗がん剤拭き取り調査を行い、動物診療施設における抗がん剤曝露リスクについて検討した。
【材料と方法】
大規模診療施設として岡山理科大学獣医学教育病院、中規模診療施設として広島県のA動物病院にてシクロフォスファミド(CPA)の拭き取り調査を行った。拭き取りはアルコール綿を使用し、院内の複数箇所を概ね10×10cmの範囲で拭き取ったのち、個別にパッキングしシオノギファーマ株式会社に測定を依頼した。なお、採材時点で岡山理科大学獣医学教育病院では院内にドアで仕切られた薬室を有し、抗がん剤の調剤はクリーンベンチ内で閉鎖システムを使用せず行っていた。また投与場所は院内で固定はされておらず、獣医師の裁量で診察室や処置室の診察台、ICUケージ内、入院室など様々な場所で行われていた。またクリーンベンチ内の清掃は行われておらず、診察台やケージの清掃はアルコールを用いて使用毎に行われていた。CPAの使用頻度としては月に1~2件程度であり、施設開設から5年経過していた。またA動物病院においては、抗がん剤の調剤は処置室に隣接した薬台で閉鎖システムは使用せず行われており、投与は処置室の診察台もしくは入院ケージで行っているとのことであった。院内の清掃には抗がん剤分解剤を用い、定期的な清掃が行われているとのことであった。CPAの使用頻度としては週に1件程度であり、施設開設から12年経過していた。
【結果】
岡山理科大学獣医学教育病院の調査では、調剤を行うクリーンベンチ内で1970ngと極めて高いCPAが検出され、同エリア内の薬室の棚やドアノブからも2~4ngで検出された。その他、CPAを取り扱った際のグローブ、投与が行われていた診察室、入院室、ICU、さらには処置室内のパソコンキーボード表面からも0.5~8ngでCPAが検出される結果となった。一方、A動物病院では抗がん剤を取り扱う薬台で44.4ng、投与を行う処置台で1.4ng、その他、入院ケージ、共有パソコン、手洗い場、入院室のドアノブなどで0.2~0.5ngのCPAが検出された。一方、休憩室や受付など、診療エリアから離れた場所や特定の従業員のみが使用する領域ではCPAは検出されなかった。
【考察】
院内のCPA汚染状況を調査した結果、抗がん剤を取り扱うエリアでは高度の汚染が確認され、とくに定期的な清掃が行われていなかったクリーンベンチ内では異常な高濃度のCPAが検出された。また、そこから離れた場所であっても調剤前後に触れてしまう場所や複数の人が触れる場所、投与された動物が一定時間留まるケージ内で抗がん剤の付着、残留が確認される結果となった。抗がん剤を取り扱ったグローブ表面からもCPAが検出されており、調剤後のグローブで周囲環境に触れてしまうことが汚染拡大の一要因であるものと思われた。また薬剤の使用頻度や清掃頻度にもよるが、院内清掃に抗がん剤分解剤を使用していたA動物病院のほうが検出される範囲が限定されており、検出量も大きく低減していることから、汚染軽減には抗がん剤分解剤を用いた定期的な清掃が有効であるものと思われた。
本研究によって抗がん剤を取り扱う動物診療施設の汚染実態が明らかとなった。汚染状況については限られた範囲での評価であり、またCPA以外の薬剤については検討を行えていないため、施設の条件や薬剤の種類を変更した追加検討が必要である。しかし、動物医療において院内の抗がん剤曝露リスクを評価した報告はこれまでなく、この結果をもとに院内での抗がん剤取り扱いや清掃方法の見直しを提案していくとともに、今後、獣医療従事者、患者家族双方にとって安全で安心できる抗がん剤投与方法の創出を目指したい。