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| 基本情報 |
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| 氏名 |
富岡 直人 |
| 氏名(カナ) |
トミオカ ナオト |
| 氏名(英語) |
Tomioka Naoto |
| 所属 |
生物地球学部 生物地球学科 |
| 職名 |
教授 |
| researchmap研究者コード |
5000059768 |
| researchmap機関 |
岡山理科大学 |
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- 縄文時代に帝釈峡遺跡群の人々は、死後に間を置かず遺体を埋める一次埋葬と、どこかに埋葬した後に、再葬(再埋葬)した場合がある。
- 一次埋葬例には、名越岩陰遺跡1969年2号人骨(時悠館展示中1体分)や豊松堂面洞窟遺跡(縄文時代後期、10体分)が挙げられる。これらは膝を折り曲げた屈葬と抜歯がみられた。なお、名越岩陰は、縄文時代後晩期の遺跡と考えられたが、東大の研究で弥生時代~古墳時代、我々の研究で中~近世の人骨の存在が証明され、複合遺跡であることが判明している。
- 再葬して集骨した例には、寄倉岩陰遺跡(縄文時代後期後半、第1号人骨群(成人骨中心)+第2号人骨群(幼小児骨中心): 成人男性15体、成人女性13体、幼小児12体、推定を含めると50体分以上)が挙げられる。この遺跡では再葬に際して年齢階梯で場所を分けていた可能性が考えられている。
- 再葬して意図的に配置した可能性が推定された例には猿神岩陰遺跡(縄文時代後期後半~晩期)の例が挙げられ、成人骨2体、小児骨3体が埋葬された盤状集積様の埋葬が発掘された。この遺跡は一次埋葬と再葬の人骨の関連性が窺われる例として全国的にも貴重な資料である。また、小規模な埋葬遺構のため、家族墓の可能性が考えられているが、年代測定による検証が必要であろう。
- 帝釈地域は、庄原市と神石高原町、さらに岡山県にまで広がる地域で、そのうち「上帝釈地域」と呼ばれる北部の地域に馬渡遺跡、寄倉岩陰、猿神岩陰、名越岩陰等の遺跡と講演会が開催された時悠館が存在する。
- 縄文時代以来、帝釈川とその支流に近い自然が作り上げた洞窟や岩陰を利用し、住居としての生活の場や死後の埋葬の場として利用していた。
- 名越岩陰遺跡A人骨(1966年1号人骨)は、岩陰部の外縁部に掘られた土壙に伏臥屈葬という珍しい姿勢で埋葬された成人男性であった。
頸はやや上向きというかなり苦しい姿勢がとられ、腕は後ろ手にされたように腰部背面に回され、両脚も背面でクロスした様な状態であった。頭蓋骨が高顔・シャベル状切歯・眼窩の丸みが強いことから縄文的ではなく、弥生時代以降の人骨の可能性が高かった。さらに埋葬後、30~50cmもあるような置石が乗せられていた(川越1976)。また、腕に鋭利な刃物による傷が残されていたことも、1号人骨の特筆される特徴であった。縄文晩期後半の層位・遺物の共伴が発掘時に確認されたが、我々の年代測定の結果、中世~近世の年代が得られた。 - 帝釈名越岩陰1966年1号男性人骨と縄文時代~古墳時代の男性人骨を比較した。この偏差折線では縄文時代後期に属すると推定されている帝釈寄倉縄文人骨平均値や瀬戸内海沿岸の津雲貝塚出土人骨平均値と大きく異なった折線となっており、中国地方の縄文人骨と大きく異なった形態的特徴があることが把握された。一方、古墳時代の九州・山口県や広島の古墳時代男性人骨とは大きな隔たりはなかった。中世~近世の遺跡出土男性頭蓋骨と比較を行った。縄文時代~古墳時代の資料と比較した図1に比べると、図2は強い火を受け火葬されていた上岩崎中世墓出土人骨を例外として、九州の中~近世人骨である博多遺跡群26次調査出土2号人骨(福岡県福岡市)や、近世の席田青木遺跡(福岡県福岡市)、同じく近世の天福寺遺跡(福岡県福岡市)の男性頭蓋骨との形態の傾向は類似していたと考えられる。出土頭蓋骨が多かったことから基線に選択した吉母浜遺跡出土男性人骨と、帝釈名越岩陰1966年1号人骨で偏差が大きく1.5以上離れた計測値がみられたのは8中顔幅、9顔高、10上顔高、13上顔示数、16眼窩高であった。ここから読み取れる特徴は、山口県の中世庶民が埋葬されたと考えられる吉母浜遺跡の男性と比較して、中顔幅が大きく、顔高や上顔高、眼窩高が高く、上顔部のみでも中国地方西部の中世人と異なった顔貌であったという点である。
- A人骨の左橈骨には金属器によって残された切創がみられる。
- A人骨のパレオゲノミクス分析は現在覚張が実施中であり、今後あらためて発表を行う予定である。
- 名越岩陰遺跡B人骨(1969年2号人骨)は、壮年期の成人女性であり縄文時代後期に帰属すると推定され、現在年代測定を実施している。頭蓋骨の特徴は、低顔で、顔の幅はやや広く、眼窩が四角く横長で、下顎骨のエラが張り、縄文人骨のひとつの典型的な形態。冠状縫合と鱗状縫合は、30歳代以前の個体であるため閉塞していなかったが、後の保存処理で膠着物質を充填してしまい、観察困難である。矢状縫合は後側の消失が外板でも開始しており、20歳代後半以降の骨格であった可能性がある。左上顎骨の小臼歯は失われ、右下顎小臼歯と大臼歯は歯槽膿漏で下顎体が貧弱な状態となっている。
- Martinの計測法を踏まえ頭蓋骨の形態計測を実施し、偏差折線を作成したところ、計測的た部分はすくなかったものの基線を津雲貝塚遺跡出土女性として計算した所、標準偏差で0~-2程度の範囲に入り、縄文女性としては平均的な頭蓋骨と推定された。また、四肢骨についても同様に分析した所、こちらは標準偏差2~-1程度の範囲であり、四肢骨についても縄文女性として平均的な大きさであると推定された。
- B人骨は四肢骨は縄文人女性としてほぼ平均的な頑丈さを示しており、一部に関節部の炎症の結果生じた可能性のある骨増殖の痕跡をとどめている。上腕骨小頭、橈骨の橈骨頭、尺骨の滑車切痕や遠位端(尺骨頭や茎状突起を含む)に骨増殖が見られる。右鎖骨については、十分に成長したサイズであり、15歳以上であるが、骨幹部遠位側が完全に骨端部と癒合しておらず、一部多孔質で彫刻が残る事から先行研究を参考にすると19~26歳程度の年齢と推定される。
- なお、佐宗・米田(2009)の分析により、名越岩陰1969年1号人骨(壮年期の男性人骨)は、当初弥生時代中期に帰属すると推定されていたが、放射性炭素年代測定法による測定の結果、弥生時代後半~古墳時代中期に帰属することが明らかとなった。以上の通り、近年は帝釈遺跡群出土人骨の帰属年代は理化学的年代測定によって見直しが進んでいる。
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